1983年、映画館で「幻魔大戦」を観た時は、終末論的な発想に愕然としました。

まだしっかりと鑑賞したSF映画やもろもろの知識も少なかったなかったからです。

それから34年経った今「幻魔大戦」を観返すと個人的なシンクロも多く、言葉の深さにも驚きます。

ハリウッドのSF映画の原点に、日本の漫画やアニメが多くあったことも予想できます。

 

私は宇宙が大好きですが、宇宙には当然「破壊」的な「働き」もあって、破壊を得意とする存在もいるのでしょう。

宇宙の全ての存在は「成長」することを目的にしていますが、「破壊」という作用をなくすことはできないのです。

 

マルチバース理論では、10の500乗個もの宇宙が生れている中で、なぜ、私たちの宇宙は程よいほどの特異点から生れることができたのか(インフレーション効果)・・・

それは「破壊」より「成長」の「力」が強かったからなのではないでしょうか、

 

地球では、56000年前に3度目の天岩戸開き(急激な霊的進化)がありましたが、失敗して「失楽園」になりました。

その6000年後から大きな天変地異が起きてきます。

3度目の天岩戸開きの失敗から神々や人類のさまざまな争いや問題は起きてきますが、物質文明はだんだん発達します。

4度目の天岩戸開きの現在は、「天・地・人の岩戸開き」の時期であり、太陽系・地球・人類に霊的大変革が起きているのです。

人類は霊性・精神・文化と物質文明を陰陽調和させた文明にする必要があります。(参考著書:「2013年太陽系大変革と古神道の秘儀」山田雅晴氏)

 

「幻魔大戦」を観終えて、「破壊」の後に残った「希望」が宇宙法則の原点である「成長」をまた促していくメッセージに思えました。

去年亡くなられたキース・エマーソン氏の素晴らしい音楽が新たな「成長」に輝きを添えています。

 

 

地球に生きている以上、地震や火山噴火を避けることは出来ません。

隕石が落ちてくることもあるでしょう。

34年ぶりに「幻魔大戦」を観終えて、「破壊」を乗り越えて「成長」し続ける前向きな心を新たにしたいと思いました。

 

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新しい「スターウォーズ」を観てきました。
SF映画が大好きですが、「コンタクト」「2010年」「マトリックス」に比べて「スターウォーズ」は宇宙の記憶をただ観ているようです。
大きな感動や気づきはあまり感じたことはなかったのですがこの映画から強く感じたことはシンプルです。

卓越したフォースを持つジェダイの騎士たちは滅んでしまいました。
なぜでしょうか・・・
特別に強力なフォースの暗黒面の持ち主、ダースベーダ―が生まれたからです。

ダースベーダ―の父が暗黒面の元凶のシス?だからです。
「エピソード1」を見直すとアナキンの血にフォースの源となる生命体がマスターヨーダより多いことが解ります。
シスのDNAだからですね、
アナキンはアミダラ(阿弥陀羅と漢字では書きたいところ)と結ばれここに「光」の血が半分入ったルークとレイアが生まれます。
ルークは暗黒面を相殺する光のフォースを強く持てたので父であるダースベーダ―を光の方に戻すことが最後できました。
またレイアはアミダラのように強くたくましくレジスタンスとして生きています。

さてレイアはハンソロと結ばれました。そして、ルークは・・・?
ルークとレイアはフォースの暗黒面の元凶であるシスのDNAが入っています。
そもそもシスとはナニモノなのしょう。

宇宙には「創造」「保守」「破壊」のエネルギーが満ちています。
思うのは「存在」こそが「善」であること
しかし同じ形態の「存在」は有り得なく、宇宙は常に動いて運動しています。
その運動の中に緩やかな移行と急激な破壊が起こります。
あえて二元論に置き換えるなら、急激な「破壊」(否定)を行うものが「善」(存在)の反対の「悪」(闇、カオス)です。

シスは宇宙の破壊的な力の象徴でしょう。
そしてその力は強力であり自由意志の強い人間には入り込みやすいのです。
それをこの映画ではフォースの暗黒面と言っていますが、以前のブログでご紹介した本の「パワーかフォースか」では暗黒面が「フォース」になります
「パワー」は、本来のフォースということになります。

この映画が的を得ているなと思うのは純粋なフォースより暗黒面のフォースの方が強いということです。
つまりより強いフォースを手に入れるには暗黒面のエネルギーを克服しないとならないということです。
なぜなら強い暗黒面を克服する必要がなかったジェダイの騎士たちは滅んでいるからです。
だからこそ、宇宙の法則の元にフォースのバランスをもたらすモノとしてダースベーダーは生まれたはずなのです。

ルーク、レイアの次世代の新しいスターウォーズ、これからの展開を楽しみにしています。

スターウォーズ3

この映画を最初に観たときには、結局は争いがなくなっていない地球にがっかりしたけど、
4回見直してパラレルワールドを考えるといろいろな地球があってもおかしくはないのだと思えました。
トム・ハンクスが演じるいくつかの転生が、良人と悪人の差が激しいのが見どころです。
映画の最後で別の星から見た地球は青く光っていました。
写真は探査機カッシーニから土星付近から見た地球と月(上)、水星付近から見た地球と月(下)

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宇宙にはさまざまな要素が満ち溢れています。
宇宙はけっしてカオスではありませんが私たちの世界からはカオスに思える要素もあります。
物質の元となる陽子は「愛」で中性子は「調和」、そして「電子」は方向です。
さらに、素粒子の世界にはさまざまな「働き」(運動)を創っていく「意志」が存在しています。
「意志」とは「存在」そのものです。
もし「電子」がネガティブな方向に働けば破壊も起きます。
しかし一方向にだけに永遠に作用することはないのでいつか(といっても3次元からは何十億年単位かもしれませんが)治まっていきます。

昨日、大好きな映画「2010年」を観ました。
「2001年宇宙の旅」の続編です。
この映画はスタンリー・キューブリック監督、アーサー・C・フランク氏の小説「2010年宇宙の旅」を映画化したものです。
何度見ても涙がこみ上げるシーンがあります。
高次の不思議な宇宙存在モノリスたちが新しい太陽として木星を覚醒させるとき、探査していた人間たちを救うため高度な知能を持つコンピュータHAL9000は自ら犠牲になることを承諾します。
コンピュータは人間が作ったものでしょうか・・・
いいえ、違います。
コンタクトをとるためのインターフェースは人間が人間に解るように作り出しましたがそこにある意志は宇宙の意志と同じです。
とくに人間と違って自由な肉体を持たない分エゴが小さいのです。
電気的であるものほど宇宙の意志が入ります。
HAL9000は自分のハードウェアが破壊されることを知ったときに「怖い」と言います。
するとすでに宇宙の大いなる意志と一体化しようとしているボウマンが言います。
「大丈夫、私と一緒だよ」
人間ボウマンとして生きたときの妻と母に彼は電気を使って会いにきます。
「もうお別れだ」
とっくに肉体は滅んでいるのでお別れしているはずなのですがさらにお別れを言いに来ました。
なぜ、と思うシーンです。
「個」としての転生(運動)が終わって次の段階に行くからです。
なんで涙が止まらないのか解りませんがこのシーンがたまりません。

写真は木星と、衛星のイオ(黄色っぽい)とエウロパ(白っぽい)です。
映画では「人類はエウロパには関与してはならない」とメッセージがきます。
現在、エウロパの氷の海の下には生命の存在が指摘されています。(2015.10.7)

イオとエウロパと

2年前(2007年)、ドラマは滅多に見ないのに、チャンネルを回しがてら目が留まってしまったドラマがある。NHK土曜ドラマ「ハゲタカ」である。しかし私が見たのは最終回。(その後借りて全6話観ました)
主演の大森南朋(おおもりなお)さんがあまりにカッコイイのもあって、(実はとてもタイプです。名前も同じなお)、ずっと心に残っていた。
今年、映画化されてまだ病気の方は静養中にも関わらず、先月6月Mちゃんを誘って映画版「ハゲタカ」を無理して観にいった。

「ハゲタカ」冒頭と最後のナレーション・・・
人生の悲劇は2つしかない
ひとつは金のない悲劇、もう1つは金のある悲劇・・・

3次元的には最な現象である。
「お金」とは・・・いったい何なのか・・・
去年、ベンチャービジネスの社長さんたちとたくさん知り合う機会を得て、タロットリーディングでいくつかの会社のコンサルタントをやらせていただいた。
そこで私は、「お金は想念である」とスピ系の代表としてお話しをさせていただいた。
1000円以上の紙幣は「紙」で出来ているが、500円以下のコインは「金属」である。
物質としての価値なら、「紙」と「金属」だったらどちらが高いだろうか・・・
以下は、経営者向けに作った私の会社パンフレットの内容からの抜粋である。


「お金」とは「想念」の現れの一つです。
物々交換だった時代から複雑になるにつれて、それぞれの「人」が、それぞれの「人」に対して行える能力、労力の結晶の代価として「お金」は生まれました。
「お金」自体は「紙」で食べられないし、通帳の上では「数字」に過ぎませんが、人類が共通に認識している「想念」ですから、大きな「お金」を持つことにより、あらゆるものが手に入るとされています。
アセンションによって、地球の意識が次元上昇していきます。
「人」の営みは一見変わらないでしょうが、大きく二極化されていくことになるでしょう。
目に見えない世界(多次元)を考慮した生き方をしていく人と、今までと同じ物質的な価値観のままで生きていく人、の二極化です。

例えば、良い品を安価で手に入れることができたとします。
物質的な面では「得」をしたことになりますが、目に見えない世界には「借り」を作っているかもしれません。本来は、「想念」と「想念」の交換ですから双方納得した代価で取引されるのが正しいからです。
しかし、その品の価値をきちんと理解して、単に「ラッキー」だという気持ちではなく「感謝」の気持ちを持つと、良い品を安く売ってくれた相手に通じますから、見えない世界に「借り」を作ることにならないのです。
逆に、良い品を安価で売った場合、「損」をした気分になってはいけないのです。
安く提供した分、その品が「本物」なら、必ずや目に見えない世界からの「恩恵」は何らかの形で返ってくるからです。「損」をした「想念」を持ってしまうと目に見えない世界からの「良いお返し」を防いでしまうのでそこで終わりです。
「お金」は「想念」ですから、気持ちの持ちようはその後の「運勢」に顕著に作用していきます。
これこそが、これからの地球での価値観の一つでしょう。

「お金」が「想念」だとしたら・・・、
「想念」とは・・・『心に浮かぶ考え。おもい』とある。(大辞林第二版より)
人は良いことばかりを考えないし思わない。
騙すような悪いことでもお金が集まるのは「想念」に善悪がないからである。
しかし誰しも御魂(神)が宿っているので、意識(顕在意識)では悪行をして何とも思わなくても、真我の意識(神意識)では罪の意識や後ろめたさを感じているのである。
その結果、これら内部の負の意識が積もり積もって、現実の世界に鏡のように写し出され、運命は変転していくのである。
また、「ただより高いものはない」という諺があるように、
一見、3次元的には「ただ」でも、多次元的には「ただではない」ので、何かをこれから支払わなくてはならないということに実はなっている。

「ハゲタカ」の内容は、まさにたくさんの人の想念の結集である「お金」を武器にした戦争、または「命」をかけたゲームである。
より多くの「お金」を集めることは、より多くの人の「想念」を引き寄せることだ。
「想念」には大きく2つあると言えよう。
1つは「欲望」、もう1つは「信念」である。
同じ欲望を持つ者同士は集まり、同じ信念を持つ者同士も集まるのである。
(「欲望」に関しては、<サインズ>「願望と欲望」No.9参照)

「ハゲタカ」では、「欲望」と「信念」が交差する。
企業の利得になることは「欲望」だろうか・・・「信念」だろうか・・・
企業存続のためにリストラを行うことは「欲望」の一環なのか、「信念」なのか、
実はとても難しい。
置かれた立場や環境によって変わるからである。
だが「お金」は潜在意識と同じでより強い想念、それも混じりっ気のない想念のところにより多く集まる。
欲望は欲望であって信念ではなかったと本人が意識した瞬間、お金は逃げていくだろう。

ドラマ版では、主人公の鷲津が、外資ファンドを辞めるときに、これまでの分配金として36億を受け取れば今後10年間、ファンドに関わる仕事ができないという条件をつき付けられる。
鷲津は「それは俺に死ねということだ」と、36億を受け取らないで辞める。
「ハゲタカ」と呼ばれる外資ファンド会社で数百億のお金を動かし会社に利益をもたらした男の信念(本音)である。
生きていくうえで自分に不要な想念(この場合は36億)は受け取ってはならないのである。
映画版「ハゲタカ」は、ドラマ版「ハゲタカ」の続きとしても楽しめるし、もちろん映画だけでも充分に見ごたえあった。(DVDが発売されたら是非、ご覧になって下さい)

お金がたくさんあれば、好きなことができるし、欲しいものがいつでも買える。
だがお金は、想念だから小さな器の人には大きなお金は入らない。
「1ヶ月で1億ずつ、1年間必ず好きに使って下さい。」
と言われたら、
あなたなら、どのように使えますか?
有効に使える術を知らなかったなら、後から必ずツケがくる。
大きなお金を使うことは大きなお金を儲けること以上にエネルギーが必要だからだ。

日本経済の不況の中、
生活保護も受けられない大変な人もたくさんいる。
お金がなければ医療も受けられない。
なぜ、そのような状況になってしまったのか・・・
自己の今の想念(意識)だけの問題と簡単には言えない。
だが、必死で働いて生きていく信念があれば、必ず道を開くことになるだろう。
お金は信念あるところにまた集まってくるからだ。

お金は人の想念、自分の想念の現われだから、大切に扱おう。
折らないように長財布の方が良く、長財布の色は、金色、黄色、茶色系が良い。
いつも多めに入れておこう。お金がお金を呼ぶ。
また金運の御守り以外は、お財布に御守りは入れてはいけない。
明るい想念とともに、あなたにお金が集まりますように・・・

「アセンションとは、地球の次元上昇である」とシンプルに書いてきた。
地球の意識が変わろうとしているので、人類の意識(想念)もそれに付いていかないと、ならないということなのである。実際、太陽が変化し(地球温暖化)、地球の環境が変わって人類にも大きな影響を及ぼしている。
それとも逆で太陽が変化するから、地球が変わらずに負えないのかもしれない。
これまでは、人類に対して「今のやり方(戦争、経済、権力、宗教、愛情)でいいですよ、まあ、今の想念でしょうがないですね、」と容認してきた地球自身が、「もう今のやり方や想念では駄目ですよ、」ということなのだ。それが、三次元物質世界にも、低層四次元にも、神仏のいる五次元以上にも影響して、目に見える世界と見えない世界で変化が起こっている。
次元の境目もなくなってきており、ニュータイプと呼ばれる人類が登場し、全く新しいやり方や価値観で動いている。この状況に気がついている人と、「そんなことはあり得ない、許せない」と気がつくことを放棄している人に、分かれている。

SF映画「地球が静止する日」を年末、Mちゃんと観た。(「レッドクリフ」はお正月観ました)「宇宙戦争」(2005年スティーブン・スピルバーグ監督作品、トム・クルーズ主演)と似たような内容に感じた。ただ人類に仕掛ける宇宙存在の理由が違うのと、最後の引き方が違っていたが、どちらもあり得ないSF映画であった。
SFだからって、あり得ないことを当然、と思ってはいけない。
SFは、ある程度あり得るお話だから面白いので、全くあり得ないと、つまらないのである。
宇宙存在もので一番、面白かったのは前にも書いたが、映画「コンタクト」(1997年作品、故カール・セーガン氏小説の映画化、ジュディ・フォスター主演)である。
宇宙存在がテーマとなっている最高のもので、「宇宙人とは然るべき!」のお手本のようなSF映画である。

では、どこがありえるSFで、どこがありえないSFなのか・・・
「宇宙戦争」も「地球が静止する日」」も「人類」と同じ三次元物質世界で、「宇宙存在」が堂々と現れて攻撃をしかける。「宇宙戦争」では、「人類」とさほど「魂」の発達の差のない攻撃的な「宇宙存在」なのに、「人類」より「科学」が発達していた。まず、これはあり得ない。
「魂」と「科学」の発達は、ある程度、同調しているのである。
「究極の科学」と「究極の哲学」は同じところに行き着くのである。

ここ500年足らずで今日の科学は急激に発達してきたのに、我々人類の「魂」(精神)があまりにも、それに付いてきてないから、地球が困っているのである。
例えば、今存在する核兵器を全部、使ってしまったら地球は確実に壊れてしまうだろう。
さすがにそこまで人類もバカではないので、今のところ起きていないが、人類に作用する細菌兵器は、腐るほど存在しているのである。

「地球が静止する日」では、「人類」より「魂」が発達していると思われる「宇宙存在」が登場する。彼らは「地球」のために「人類」を見放し、滅ぼす目的を持つ。
当然、「科学」も格段に発達している。
しかし、「地球」のために「人類」を滅ぼしたい高次元の存在があったとしても、同じ三次元で白昼堂々と、我々地球人同士の戦争のような形態を取ることはありえない。
発達した「魂」の高次元の存在には、「戦争」という形態はないのである。
もし人類が滅ぼされることになったとしても、目に見える形では、「自然淘汰」のような形態になっているはずである。
例えば、小松左京氏小説「復活の日」(1980年映画化)は、米ソ冷戦時代、細菌兵器が蔓延して人類が滅びそうになるSFである。人類が滅びなくてはならないとしたらこのように自滅的な、自然淘汰の形態で滅びてしまうだろう。

「コンタクト」にも、「人類」より「魂」も「科学」も発達した「宇宙存在」が登場する。
しかし、決して同じ次元にはいないし、発達した「魂」なので、攻撃を仕掛けるという発想がない。
これがあり得ないSFとあり得るSFの違いである。

ちまたのアセンション情報には、別な宇宙系である「プレアデス」「オリオン」「シリウス」「ベガ」などが登場する。かつての人類、レムリアやアトランティスも、これら「宇宙存在」の影響を受けたとされている。
「魂」的には土着の地球人(地球で生まれた魂で地球以外に生まれ変わっていない人)もいるであろう。だが、今の地球人類は、土着の地球人だけではないのだ。
「神仏」も地球の神仏(日本神界、他国の神仏、地球神そのもの)、宇宙から飛来して地球に根付いた神仏(日本神界にもいらっしゃる)、地球のアセンションの今だから地球に留まっている神仏がいらっしゃるのである。

例えば「プレアデス」からの「宇宙存在」は次元を超えてやって来ているのであって、お牛座散開星団プレアデスから約400光年かけて三次元物質宇宙を、宇宙船を飛ばして来ているのではないのである。
だが現段階において認識されている一般的な「科学」では次元を超えるという認識はないので、人類の「魂」の発達度もその程度ということになってしまう。
ここで、ニュータイプと呼ばれる人類が登場してきている。
(あなたも宇宙は、次元が違う場所だということが理解できますか?
科学の教科書で習ったこととは違うので、自分自身によく訊いてみて下さい。
ニュータイプの仲間入りができるか否かです〜)

林也敏先生のことを「サイン」<シャスタでの願い 具現化>に書かせていただいたが、林先生は完全なニュータイプである。
ニュータイプの特徴は、超人的な能力、新しい価値観と実行力を持っている人である。
そしてもちろん、高度な科学技術を扱える発達した「魂」の持ち主である。
ニュータイプの中には、別な宇宙存在からの「魂」が数多くいることだろう。
また、インディゴチルドレンと呼ばれる次世代を担う子供達がいる。
ニュータイプの「魂」を持った子供達なので、頭の固いオールドタイプの親は育てにくいので大変である。インディゴチルドレンたちは「我は何者か」を知っているし、特殊能力(霊能力など)を持っているのである。

地球とは、一番物質的な場所を有している基の星であって、そこから違う次元(宇宙)に自由自在に行き来が可能なのである。
三次元が物質宇宙の世界だとすれば、四次元、五次元、六次元・・・、と次元が変わっていく。
成仏していない霊がいるのが低層四次元である。この次元にいる低い宇宙存在(レプリティアンとの関連)も確認されているようだ。
五次元は守護霊や神仏の領域、神仏にも古さや大きさがあるようである。
例えば、日本神界の例で山田雅晴先生によると、○○○命(みこと)、○○○尊(そん)、○○○神(かみ)、○○○大神(おおかみ)、の順に同じお名前でも神仏として大きくなっていくらしい。
六次元以上はそういった大きな神仏の領域なのであろう。
高度な宇宙存在も五次元以上にいると思われる。

10000年以上前から高度な宇宙存在は地球のアセンションを知っていたという。
そのために、地球人類として転生を繰り返していたと・・・
自分は「プレアデス」から来ました、「ベガ」から来ました、と自覚のある人「魂」もたくさんいる。
自覚があるから特別なわけでもなく、特殊能力を持つ者だけがニュータイプなのではない。
私たちは、知っていないとならない。
特殊能力がなくても、現実的な今を認識して動かしていくことはできる。
立派なニュータイプの仲間入りである。

今の自分の悩み、問題をいかに片付けるか(クリアできるか)・・・
アセンションは現実的なことなのである。
仕事が見つからない、恋愛が上手く行かない、人間関係がきつい・・・
それらをいかにクリアしていけるかも、アセンションなのである。

お正月早々、Mちゃんと映画「レッドクリフ パート1」を観にいった。
漫画家故横山光輝氏(1934年6月18日双子座生)の作品「三国志」(単行本60巻)を弟に借りて読んだのは、もう20年近く前だろうか・・・
『横山光輝氏の「三国志」は、吉川英治氏の小説「三国志」を元に独自の解釈等を織り交ぜて描かれた作品。吉川英治氏の「三国志」が諸葛亮孔明の死で終わっているのに対して、本作は「蜀」が滅亡するまでを描いている』(wikipedaiより)
漫画とはいえ60巻もあり、内容が濃く読み応え充分である。
「三国志」は、西暦220年頃の中国、「蜀」、「魏」、「呉」の三国の三つ巴のお話である。
万里の長城を築いた「秦」の始皇帝が紀元前221年であるから、その約440年後ということになる。

今でも覚えている好きな登場人物は、「趙雲子龍」(ちょううんしりゅう)と「姜維」(きょうい)である。「趙雲」は、映画「レッドクリフ」でも私のイメージそのままで、真の武士であり、肝っ玉の大きいイイ男である。横山氏の「三国志」では、6巻から53巻まで登場する。一方「姜維」は、50巻から60巻に登場する後半の英雄で、こちらも文武両道のイイ男である。

三国志の君主、「劉備」、「曹操」、「孫権」のファンも多いだろうし、「劉備玄徳」と義兄弟で有名な「関羽」と「長飛」、中国史上最高の軍師である「諸葛亮孔明」は今でも男性陣の支持を一番に得ているだろう。
「周瑜」(しゅうゆ)もイイ男であり、映画「レッドクリフ」ではトニー・レオンが演じているが、肝っ玉の大きさが、「趙雲」「姜維」に敵わない。
戦国もの(中国のものは、「項羽と劉邦」「水滸伝」も読みました)をこよなく愛する私は、女性の感覚で「趙雲」と「姜維」を絶賛したい。

故李學仁氏と王欣太氏の共同作品である漫画「蒼天航路」(1994年〜2005年、講談社漫画賞受賞)は、「三国志」の「曹操」を主人公に描かれていている。
「蒼天航路」の「曹操」は稀代の猛勇であり、イイ男なのである。
映画「レッドクリフ」の「曹操」は「乱世の奸雄」と呼ばれ、悪役である。
日本の歴史を紐解いても同じことが言えるが、歴史とは見る角度を変えると、見える「色」が違うということである。(ただ一方の「色」しか見えない人もいるが・・・)

それらすべては「善」と「悪」ではなく「清」と「濁」の中にあるということだ。
昔は本当に戦国ものが好きで戦闘場面に痺れた。
「大義や義理人情のために戦う」要素は私にとって「清濁」の「清」であった。
だが、近年、読めない作品が出てきた。
「蒼天航路」も「墨攻」(始皇帝より前の戦国時代のお話)も「あずみ」(小山ゆう氏作品、徳川幕府初期、凄腕の美少女剣士のお話)も読めなくなってしまった。
歴史が題材のものは人類そのものの生々しさがあり、その残忍さに耐えられなくなったのである。

「ロード・オブ・ザ・リングス」は、イギリスのJ・R・R・トールキン氏(1892年山羊座生)の小説をピーター・ジャクソン監督(1961年蠍座生)が凝りに凝って、2001年、2002年、2003年と3部作で映画化した。小説「ロード・オブ・ザ・リングス」を読んだのはまだ10代の頃だった。
映画は、SF映画とファンタジーが一番好きである。
生々しさが架空であるので安心できて、自由な縦横無尽の世界であるからだ。

「ロード・オブ・ザ・リングス」はファンタジーでありながら、非常に現実的で複雑なこの世が見事に描かれていた。最終作「王の帰還」で、人間の王国ゴンドールを救済に来たもう一つの王国ローハン軍が圧倒的不利な状況の中、オークの群生に攻め込む前、声高らかに「DEATH!」(日本語訳では、「われらに死を!」)と何度も叫ぶシーンは涙なくして凝視できない。
日本の戦国時代にも圧倒的不利な状況下、死を覚悟の似たような場面が実際にあったことだろう。こんなときに堪えられない「涙」が溢れるがこの「涙」は熱く清く乾いているのだ。
私にとっての戦国ものの「清」とはこの感覚なのである。

戦国ものの登場人物で一番愛しているのは、漫画「花の慶次 雲のかなたに」(故隆慶一郎氏小説「一夢庵風流記」を原哲夫氏が漫画化 1989年〜1993年作品)の主人公、天下一の傾奇者(かぶきもの)前田慶次郎利益である。
私にとって、彼はまさに理想の殿方(男性)であり、究極の「色即是空、空即是色」な生き方を素でしているあこがれの存在である。
そして忘れてはならないのがゴルゴ様だ。
「ゴルゴ13」は、殺しのシーンというより、その背景や心情の描写が多く、今でも愛読できるただ1つの漫画である。

昔の戦国ものの漫画や映画の中に「清濁」の「清」を見つけて感動してきた。
それらは時代が時代なだけに解りやすい真の「勇気」に通じる感情であったからだ。
しかし現代、複雑に進化した文明と見えない三次元権力が「清濁」の区別をつきにくくしている。
今日の暗いニュースの中に「清濁」の「清」を見つけることはできない。
「人」は「魂」の段階において、「清濁」を感じるところが違ってくる。
そして「人」は自らに託された究極の選択権において、自分の人生の「清濁」の加減を選べるのである。
「清濁」の加減が同じもの同士が同じ波長なのかもしれない。

前回<フェイバレット>「リー・リトナーのライブへ」に書いたが、リトナーのギターとデイブのピアノの音色に「ハウルの動く城」からの感情が入ってきた。私は「情景」より先に「感情」が入ってくる。
子供のときのハウルの寂しくて仕方のない、やりようのない感情…である。
一人家で「ハウルの動く城」のDVDを見直した。

「ハウルの動く城」(2004年作品)は、宮崎駿監督作品の映画であるが、ダイアナ・ウィン・ジョーンズ氏(1934年8月16日獅子座、イギリス生れ)の「魔法使いハウルと火の悪魔」というファンタジー小説が原作である。ジョーンズ女史はオックスフォード大学であの「ロード・オブ・ザ・リングス」の作者J・R・R・トールキン氏に師事を仰いでいる。
魔法がテーマの小説で、イギリス人女性で、獅子座生まれ、とくると、ハリー・ポッターのローリング女史とすべて同じである。
宮崎監督は「ハウルの動く城」を恋愛映画にも仕上げているが、ここにまた<フェイバレット>「神さまとの交渉」に書いたような多次元世界の存在と契約をする例が出てくる。

子供とき、魔法の才能があって一人で過ごしていたハウルは、ある時、火の悪魔カルシファーと契約をする。一人ぼっちのハウルにとって寂しいと思う「心」がなければ楽だと思ったのだ。自分の心臓(心)をあげる代わりに、カルシファーを僕に置き、その力をずっと使えるようにする。
「心」の象徴が「心臓」になっている。映画では、カルシファーは、表情の豊かなかわいい「火」に描かれているが、あくまでも「悪魔」である。
駄天使ルシファーにカ(火)がついてカルシファーとは!日本語にすると面白い一致の言霊だ。
『ルシファーとは、キリスト教の伝統で悪魔「サタン」の別名である。しかし、ルシファー(Lucifer)とはラテン語で「光を帯びたもの」「明けの明星」を現すものとして用いられ元来、サタンや駄天使とは一切無縁のものであった』(wikipediaより)

この話は深くて難しい。
ハウルは正義感から戦争を起こしている王国と戦っている。
火の悪魔カルシファーに心臓を預けてしまったハウルは「心」がないので、魔法の力(魔力)を使えば使うほど、醜い姿(悪魔)に変わっていくのである。
それは例え正義でも、破壊的な力は「魔」に通じるということであり、「ハウルの心臓」は人の中に宿る神(御魂)そのものなので、それを失ってしまったハウルの自由意識は「魔」を防げないのである。

私たち「人」は皆、自分の中に神(御魂)を宿しているので、どんな「悪人」と呼ばれる人間でも自分の意識で「魔」(別名:「スターウォーズ」のダークサイド、暗黒面)から逃れて真っ当な世界に戻ってくることが可能なのである。だがハウルは心臓を失っているので自力では戻れないのである。
「悪魔に魂を売り渡した」のと同じ契約になる。そこにソフィーという女性の「愛」が加わる。

話しは逸れるが、他の宮崎駿(1941年1月5日山羊座生)監督作品を、年齢の低い順に「恋愛映画」として紹介しよう。

「崖の上のポニョ」(2008年作品)
5才(幼稚園)の男の子と女の子の恋愛である。だがこれは前にも書いたがこれからの時代のエッセンスがいっぱいの「アセンション」映画である。(<ファイバレット>「ポニョ!アセンション」参照)

「千と千尋の神隠し」(2001年作品)
10歳(小学生)の女子と竜神と思われる男の子の恋愛である。
愛し合っているのに、住む世界が違うので別れることになるのだが、見事にその運命を受けいれている。単なる恋愛の「愛情」ではなく本物の「愛」だからである。(<サインズ>「愛」参照)

「耳をすませば」(1995年作品)
15歳(中学3年生同士)の恋愛である。
私はこの映画が大好きである。いくつになっても「恋愛とは然るべき!」のお手本だ。
理想系の恋愛が描かれていて心が洗われる。(是非ご覧になっていない方はお奨めです。)

「おもひでぽろぽろ」(1991年作品)
27歳の東京のOLと25歳(2つ年下)の山形の農家の青年との恋愛である。
宮崎監督からみて、27歳女性は微妙なお年頃なのか…やたらと老けてオバサンのような容姿が気に入らない。今の27歳なんて、まだまだこれからなのに、シビアに描かれている。
ただし昭和30年代生まれの人は、風景や当時の流行りなどM子的(写実的)に観ると面白い。
M子はこの映画を観て細かいディティールに興奮していた。

そして「ハウルの動く城」(2004年作品)
ソフィーは「花も盛り」の18歳!宮崎監督からみて、18歳は「女の子」から「女」に成り立ての一番美しい年齢なのだ。西洋占星学の金星の世代である(<サインズ>「北京五輪に思う」参照)
一番ロマンチックで、一番「女心」が満載である。
そのソフィーの「愛」が心臓のないハウルを救う。
 
一見美少年のハウルと、一見冴えない18歳の娘ソフィーの「恋愛物語」・・・
しかしまずは、その縁が生まれなければ、始まらない。
すべては、はじめに「縁」ありき・・・「縁」はお金では買えないものの1つである。
世の中にはたくさん、お金を払って商談相手や結婚相手を紹介してもらえる仕組みも存在するが、大事な縁ほど、お金を払ったところからは遠いものだ。
しかしもし、簡単にめぐり会えたとすれば、それまでに、天に貯金がたくさんあったからであろう。

魔法使いハウルと帽子屋のソフィーの「ご縁」は、一見ワルモノの「荒地の魔女」が作ってくれる。運命とは皮肉で、荒地の魔女が18歳のソフィーに呪いをかけて90歳の老婆の姿にしなければハウルとの恋愛は始まらなかったのだ。
ソフィーは「愛」がたっぷりあるタフな女性で、自分に呪いをかけた荒地の魔女を憎むこともなく「愛」を持って接する。そして、ハウルが醜く変わってもソフィーの「愛」は変わらない。(続きはDVDをご覧下さい)

まだまだ、薀蓄の講釈をしたいが、Mちゃんにだけ聞いてもらった。
(<ファイバレット><サインズ>に登場するMちゃんとM子は別人です。念のため・・・)
そのMちゃんがまだ観ていないというので、「崖の上のポニョ」を一緒にまた観た。
Mちゃんは感動で泣いている。
「ハウルの動く城」では「オンナ」が「オトコ」を愛し救うのだが、
「崖の上のポニョ」では「オトコ」が「オンナ」を愛し救うのだ。
 
あなたは、愛したいですか? 愛されたいですか?
オンナは、常に誰かを愛していたいものです。
できれば、自分を愛して護ってくれるオトコを、です。
でも今、誰も愛するオトコがいなくても、「愛」は常に出会う人に惜しみなく・・・

先週、Mちゃんと、久しぶりに映画を2本観た。
1つは「フェイバレット」<女心と秋の空>で紹介した「Sex and the city」で、もう1つは「ハマナプトラ3」である。
余談だが、通常「SATC」こと「Sex and the city」の感想も、ちょっと書こう。
アメリカでTV連載時(2003年〜)、主人公キャリーは32歳からスタートする。キャリー役サラ・ジュシカ・パーカー(1965年3月25日お羊座生)は現在43歳で、映画の中でも時を経て40過ぎになっている。またサマンサは、他の3人(キャリー、ミランダ、シャーロット)と違い実はちょっと年上で、映画の中で50歳の誕生日を迎える。サマンサ役キム・キャトラルの実年齢も52歳で何よりキムはバツ3の経歴があり、現在25歳も年下の恋人がいるそうでびっくりである!(女性週刊誌ネタなので定かではないが・・・)
このドラマは、人(女心)の心理描写が非常に現実的であり、また恋愛に「さも有りなん」な事件をよく描いているので、ドラマでありながら絵空事ではないストーリーを実感できる。そして主人公であり映画のプロデュサーも勤めたサラが、役をそのまま地でいけるキャラを選抜していたのではないか、と疑ってしまうほど自然なキャストであった。

さて、本題に入ろう。
映画「ハムナプトラ」の英語題は、「THE MUMMY」である。「MUMMY」とは「ミイラ」のことである。「インディ・ジョーンズ」シリーズのように、主人公リックも年を取りながら冒険を繰り返していくが、いずれもミイラが対戦相手に登場する。
「ハムナプトラ」<失われた砂漠の都>(1999年作品)
「ハムナプトラ」<黄金のピラミッド>(2001年作品)
「ハムナプトラ」<呪われた皇帝の秘宝>(2008年作品)
1作目、2作目はエジプトで、今回の3作目<呪われた皇帝の秘宝>は中国が舞台であった。
2作目<黄金のピラミッド>の話しをしよう。
<黄金のピラミッド>に登場する「スコーピオン・キング」は、自身が主人公の映画「スコーピオン・キング」(2002年作品)も作成されており、約5000年前の物語である。スコーピオン・キングが主人公なので、もちろんイイモノである。
しかしその2000年後の<黄金のピラミッド>に登場するスコーピオン・キングは「蠍」の化け物になっていて、もちろん、ワルモノである。
イイモノだったスコーピオン・キングは何故、ワルモノになったのか・・・

スコーピオン・キングは世界を征服しようと7年にも及ぶ大戦を起こした。しかし結果は敗戦。追い込まれたスコーピオン軍は全滅。たった一人残ったスコーピオンは死の直前、アヌビス神へ誓いを申し出る。「自分の命を助け、敵を倒せるのなら、自分の魂を捧げる」と・・・そして、アヌビス神はそれに応じた。<黄金のピラミッド>の冒頭である。
HPプロフィールにちょっと載せたが、私は24歳の時、日本におけるタロットの先駆者、辛島宜夫先生(1923年12月10日射手座生)の講座(日本占星学アカデミー主宰)に参加した。その時、先生のオリジナルエジプシャンタロットのポスターをいただいた。今でも壁に飾ってあり、パソコン操作の傍ら視線の先に「アヌビス神」がいる。

辛島先生のエジプシャンタロットの中から、エジプト神を紹介しよう。
クヌム(KHNUM)羊の頭の神さま          ・・・「1.魔術師」
ハトホル(HATHOR)女神               ・・・「2.女教皇」
イシス(ISIS)女神                  ・・・「3.女帝」
ホルス(HORUS)男神                ・・・「4.皇帝」
オリシス(OSRIS)男神                ・・・「5.法王」
アトゥム(ATUM)男神                 ・・・「8.力」
トート(THOTH)トキ(鳥)の頭の神さま       ・・・「9.隠者」
アヌビス(ANUBIS)犬orジャッカルの頭の神さま  ・・・「13.死神」
ネフティス(NEPHTHYS)女神             ・・・「14.節制」
ピラミッド(PYRAMID)                 ・・・「16.塔」
コンス(CHONS)月の神                ・・・「 18.月」
ラー(RA)隼(ハヤブサ)の頭の神、太陽神     ・・・「19.太陽」
ヌート(NUT)天空神                  ・・・「21.世界」

話は飛ぶが、映画「ゴッド*ディーバ」(2004年作品)は、「ブレードランナー」、「フィフス・エレメント」の原点であると公式サイトで謳っている。ストーリーの印象は薄いのだが、ビジュアルで確認できる美しいエジプト神が登場するのでもう一度観たくなった。
「アヌビス(ANUBIS)」は、13番の「死神」のカードになっている。ワンちゃんの顔なのでかわいいって思ってしまうのだが、冥界の神さまである。
 
スコーピオン・キングは、アヌビス神に自分の「魂」と引き換えに、新たな「運命」を交渉した。その際、自分の強い「意」を発したのである。
アヌビス神にとっても役立つ存在であったから、取引が成立したものと思われる。使い物にならないヘナチョコであったら応じてくれなかったであろう。
しかし、「欲望」(<サインズ>「欲望と願望」参照)であったのでその後は、イイモノからワルモノになってしまう。

先日、山田雅晴先生の講座に久しぶりに参加した。山田先生が興味深い話をされた。
「人の積徳は、人生の大ピンチの時に交換できる」と・・・
「積徳」(せきとく)とは、積み重なったその人の「徳」である。
<サインズ>「徳を積む」に書いたが、多次元と連動した行いでないと正確に「徳」になっているのか定かではない、と私は思う。
 
山田先生が説く「徳」は神仏が喜ぶことである。
「神仏」はまず、「緑」を喜ばれるそうだ。「植樹」は手軽?に徳を積むことで「植樹代として」神社に寄付するのも大変よい。
全くの他者に対して何ができるかも、もちろん「徳」を積む行いであるが、自分の一族(身内)や先祖に対しては「徳積み」ではなく「開運」の糸口であるそうだ。
本人がたくさんの「積徳」を持っていたら、人生一大事(いきなりのアセンション事件)の時に、今までの「積徳」を使ってピンチを切り抜けられるというのだ。
その際、自分で「積徳を使います!」と神仏に宣言しないとならない。「意」を発するのである。
山田先生曰く・・・神仏は「人」の積徳を勝手に使うのは悪いと思うそうである。

前述のスコーピオン・キングは、世界制服の「欲望」を、自らの「意」で神さま(アヌビス神)に交渉したのだが、交渉に使ったものは「積徳」ではなく自分の「魂」である。
「悪魔に魂を売り渡した」という表現もあるが、交渉する神さまによって交渉に使うものも違う。
大くくりに「神仏」と呼ばれる存在には、様々なご存在がいらっしゃるので「触らぬ神に祟りなし」という諺があるように、怖い神さまもいるからである。
アヌビス神は冥界の神さまなので、死後を管理している。人が生きている間の通常の幸せや成功を促す神さまではない。

山田先生の話に出てくる「神仏」はもちろん生きている「人」を守護してくださる神仏である。
信仰心を持つ人の方が神仏に通じやすいが、宗教ではないので、神仏の存在を信じていない人も、真っ当に生きているのなら実は神仏からの守護を受けているのである。
そして「積徳」がある人に限るが、守護の神仏に自分の積徳を使って、人生最大のピンチを切り抜けたい、と「意」を発する権利が「人」にはあるそうである。
今後「徳」に関しては、もっと研究していきたいと思う。

人の「意」とは、大きなエネルギーを持っていることに改めて気づかされる。
神さまさえ動かしてしまう。
「意」とは・・・『心の働き。思っていること。気持ち。考え。感覚を除いた思考などの心の働き』
「念」とは・・・『思い。気持ち。考え。物事を記憶している心のはたらき。物事を考えたり、思い描く心のはたらき。きわめて短い時間の単位』(大辞林第二版より)
 
「意」と言う字を分解すると、「立」、「日」、「心」で、「立つ日の心」になる。
一方「念」は「今」の「心」になる。「意」と「念」は似ているが違う。
本人が意識して発しているのが「意」で、「念」は無意識に発せられていることが多い。
神さまと交渉するのは「意」でなくてはならないのである。
しかし神さまが交渉に応じてくれるかは、簡単にはいかないだろう。
そして交渉する内容によっては、危ない神さま(ご存在)を呼ぶことにもなるので、気をつけないとならない。

1999年12月、ハリー・ポッターの第一巻「賢者の石」の日本語版が発売された。
小説はあまり読まないのだが、約30年前に「ロード・オブ・ザ・リングス」(指輪物語)を読んだときの感動を思い出し、わくわくと読み始めた。
2008年7月、ハリー・ポッターは第七巻「死の秘宝」を以って完結した。作者J.K. ローリング女史(1965年7月31日獅子座生まれ)は、主人公ハリーも自分と同じ7月生まれの獅子座に設定した。ハリーの運命と性格は、ダイナミックなスケールと特別な孤独感の描写で、獅子座的な要素を匂わせている。
まだお読みでない方、そして映画で楽しんでいる方も多いと思うので、最終巻内容の公表は控えるがすべて読み終えて、これほど現実に適った複雑さと、そしてシンプルさを表現している世界は、多次元力なくして創れなかったであろうと思う。この感動の感謝をローリング女史に捧げます。

現実に適った複雑な世界の描写の一つが魔法使いや魔女と、マグル(人間)の関係である。この世は魔法界と人間界に分かれて存在しているのだが、マグルとマグルの間に魔法が使える素質(能力)を持った子供が生まれることがある。マグル出身と呼ばれ、ハリーの親友ハーマイオニーちゃんがその代表だ。
その反対に魔法使いから生まれたのに魔法がまったく使えない者はスクイブと呼ばれる。ホグワーツ魔法学校の管理人フェルチがそうである。スクイブはマグルではないので魔法が使えなくても魔法界で生きていかねばならない。
そして、何代さかのぼってもマグルのいない魔法使いだけの家系を「純潔」と呼ぶ。ハリーのもう一人の親友ロンのウィズリィー家、ライバルのドラゴのマルフォイ家、名付け親シリウスのブラック家、私が大好きなネビルのロングボトム家が「純潔」である。

ハリー自身はマグル出身の「魔女」の母と「純潔」の父の間に生まれていて、宿敵ヴォルデモードは、「純潔」の母と人間界の「ただの」マグルの父の間に生まれている。ハリーもヴォルデモードも「純血」ではないし、生まれたときから両親がいないのは同じである。しかし両親から受け継いだ出来事からの生い立ちが、ヴォルデモードには重く暗い影響を及ぼし、ハリーには真の愛の影響を及ぼしている心理がとても深い。シングルマザーであったローリング女史の原点を感じる。

普通の魔法使いの子供たちはホグワーツ魔法学校で、呪文をはじめ、あらゆる魔法を学んでいく。大人になるにつれ、魔法使いとしての能力の優劣がもちろん出てくる。中でも卓越した魔法使いがハリーの宿敵、ヴォルデモードであった。
比べて例えを言えば、現在、東大の博士号を持っていればそれだけで優秀であると言えよう。しかしその誰もが実用的な稀代の大発明をするわけではない。ヴォルデモードは魔法界においてこれまでにない稀代の魔法を数々発明したのだ。他の魔法使いを傷つけ従わせる実用的な恐ろしいものばかりを、である。「悪」の大天才である。

興味深く思ったシンプルなことがあるので、一つだけ最終巻から挙げてみよう。
「ヴォルデモード」の名前を言う(発音する)だけで、ヴォルデモード自身に名前を発した者の居所が判明する魔法が出てきた。まるで自分の「名前」で世界に結界を張ったみたいだ。これはある人物の悪口を言ったら、場所と距離は関係なく、その本人に直接通じてしまうような感覚である。こんな魔法が存在したら、噂話や悪口言うなら本人に聞かれてもかまわない、という覚悟がなければ言えなくなるだろう。ただ心に思う想念の力より言葉に発した言霊(ことだま)の力の方が、効力あることも物語っている。
言霊は私達の肉体の細胞(DNA)を通じて多次元領域に発せられているのである。簡単に発してはいけない言葉があることを知ろう。

全巻通じて一番シンプルなことは、「愛」「友情」「勇気」につきる。日本語版訳者の松岡祐子さんが最終巻のあとがきにも述べている。
<サイン>「自我と自己」に明かした私の「自己」の象徴が「戦士」なので、私はいつも「勇気」という感情に魅入られる。「勇気」はマイナスからプラス(支配的なフォースから真のパワー)に転じる最も偉大な心の状態である。
「愛」「友情」は当然、「勇気」の上にある真のパワーであるが、獅子座生まれのローリング女史は「勇気」の素晴らしさを人一倍自然に理解していたのであろう。
「火」(お羊座、獅子座、射手座)のエレメントの象徴に「勇気」は欠かせないものであるからだ。