「愛」のカタチには、いろいろありますが、ここでは3つのパターンを考えてみます。
1つは、向き合うこと・・・
「向き合うこと」とは、相手の行動や言動に対してしっかりと見ていて聞いている「愛」です。
そしてそこに、道理に反していると思うような行動や、自分とは違う感覚があった場合、相手に投げかけをしてコミュニケーションを取ることになります。
結果、ケンカにもなるかもしれないし、互いに納得がいくまで長い話し合いになるかもしれません。
親子、配偶者、恋人、友人、仕事の仲間などに関して全て起こります。
会社でチームを組んであるプロジェクトを遂行しているとき、リーダーはみんなの考えをまとめて、みんなを引っ張っていくのが理想です。
これはリーダーの役割であると同時にリーダーの「愛」のカタチでもあるのです。
もしリーダーが自分の考えだけで誰の意見も聞かず、ろくにコミュニケーションもとらないでいたら、役割も果たしていないし「愛」も足りないのです。
そんなときに、リーダーに意見を投げかけることができたらそれは向き合う「愛」になります。
どうぜ何を言ってもダメかもしれないと思っていても、おかしい点を言えることは勇気をともなった大きな「愛」なのです。
次の1つは、見守ること・・・
「見守ること」とは、「向き合うこと」の次の段階か、または今は向き合うタイミングではないときです。
見守るといっても相手に向き合ってはいますが、直接的なコミュニケーションを控えて相手の行動や言動を見守っているときの「愛」です。
親子の場合、親は子の選択にいちいち口出ししないでその成長を「見守る愛」が理想と思われますが、やはりそうはいかないで、「向き合う愛」でぶつかり合うことも必要でしょう。
目上の人がおかしな方向にいってしまっている人に、その人自身が気づくまで見守っていることもあるでしょう。
「見守る」は「向き合う」に比べて、エネルギー量は減ります。
同じ「愛」ですが、同じ次元でコミュニケーションを取るということは「言霊」のエネルギーが要るからです。
見守る愛は直接的なコミュニケーションを介さない「愛」になります。
そして最後の1つは、願うこと・・・
「向き合うこと」「見守ること」よりエネルギー量が少ない「愛」は「願うこと」です。
同じ「愛」ですが、私たちには3次元の肉体があります。
この肉体を多く使うことをエネルギー量と考えてみます。
コミュニケーションの仕方にエネルギー量の違いがあります。
「言霊」を使う直接的なコミュニケーションは一番「愛」のパワーが強いものなのです。
離婚して十年以上が経ちました。
別れた配偶者は今どうしているのか、幸せであって欲しいなと「願うこと」も「愛」です。
向き合う機会も、見守る状態にもない、空間的にも離れた状態ですが、願うだけの「愛」になります。
だた「願い」はそのときは発しますが、日常は意識していないので「無関心」の状態です。
別れた配偶者を思い出して、相手がどうなっていようが関係ないと思ったら「願う愛」はありません。
恨みもなければただの無関心です。
無関心の状態は「愛」がありませんが別に悪い状態でもありません。
「愛」は強制的には起こってはこないのです。
自然に「願うこと」とはエネルギー量は少ないけど「愛」には違いないのです。
「向き合う愛」「見守る愛」「願う愛」・・・
私たちの守護の神仏さまたちも私たちをこのような「愛」で満たしてくださっているのでしょう。
願望が実現するときは「向き合う愛」で私たちを後押ししてくださっているのでしょう。
願望が実現しないときは「見守る愛」で私たちが足りない何かに気づくまで待っていてくださっているのです。
そしていつも人類が調和的な進化に在ることを願ってくださっていることでしょう。